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鶴の遠征、その三

2020/04/24 9:46 閲覧数(577)
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 『鶴の遠征』最終章の全文を記す――。
〈その遠征の帰途、三国峠からちょっと折れて、仙湯といわれる法師の宿で湯につかり、昼飯を食った。
「ああ、この湯は若い頃から好きだった。――でも、おそらくこれが最後でしょうな。こんふうなアソびもね」
 三日間、ほとんど一睡もせずアソびまくった富沢さんの感慨が、なんとなく私の胸を刺した。
 その予言どおり、次の年の正月、風邪をひきこんだのがきっかけで寝つきはじめ、二度と起きてこなかった。
 正月の恒例の立川記念競輪にいつも顔を見せる富沢さんの姿がないので、そのことを知った。もともと病身で、体力の乏しい人なのが、食欲を失って、注射だけでようやく命脈を保っているという。
 ところがその朝、突然、口を開いて、
「赤競(予想紙)のM記者を呼んでくれ――」
 と奥さんにいった。富沢さんと親しいMさんが駆けつけると、予想紙を受けとって胸の上にのせて、いったん眺めたという。
「10レース、10レース――」
 昏睡を続けている人が、うわごとのようにそれだけ呟いた。元気ならば、また十種類近くの半端な枚数を頼んで手を焼かしたことだろう。
 M記者は次の日も、予想紙を持って駆けつけた。枕元で出走表を読んであげた。もうそのときは意識不明だったが、わかったのかどうか、M記者の声にいちいち頷き返したという。
 そうして鶴のような老作家は天国に遠征していった。葬儀は、弟子の寺内大吉和尚がとりしきって盛大におこなわれたが、祭壇の中央に黒いリボンを結んだ故人の写真の前に、赤競がチョコンと供えてあった。一流出版社や有名人からの花輪がぐるりと祭壇をかこんでいたが、私の眼には、一枚の予想紙がひどく印象的に見えた。
あとできくと、納棺のさいにも赤競と赤エンピツを入れたという。
 競輪の予想紙を片手に天国へ行った人は、富沢さんをおいて他にあるまいと思われる。(前掲書No.1467~1487)
 富沢氏の命日は1970年1月15日と『富沢有為男選集』附載の年譜にある。元号になおせば昭和の四十五年、俺は十二歳の少年で、競輪など露とも知らず、富沢有為男も阿佐田哲也も知らない。
 そんな俺がふとしたことから競輪をおぼえ・病みつき、阿佐田哲也を読み、富沢有為男という作家を知り、ほんの気まぐれで競輪の予想紙の記者になり、六十手前で急死したNさん、七十歳で逝ったMさん、それぞれ棺に入れられた青競を手に旅立った先輩記者二人を見送ることになるのだから、人生はまことに不思議である。


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