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老女は言った。吉井は強い、あの中野相手に逃げきっちゃうんだから、と。

2023/08/27 18:38 閲覧数(470)
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 松戸記念のテレビ中継に吉井秀仁氏が出演しているのを見て、ふっと四十年近く前の川崎(花月園だったかもしれない)競輪場の老女を思い出した。老女は私の五六人くらい前に立ち、まわりに吹聴するようにしゃべっていた。女も私も「最終」がはねた混雑する払い戻しの同列に並んでいる。一着は吉井選手の頭で八百円くらいの配当だったか(もちろん枠単)。「こんなところで吉井が負けるわけないだろう。吉井は強いんだから。あの中野(浩一)相手に逃げきっちゃうんだから――」と何回もくりかえしていた。誰も相槌など打った気配はないのに「なぁ、そうだろう、あたりまえだ――」声音も段々と太く禍々しいものになってゆく。そう記憶しているのだが、正確かどうかは自信がない。あやしい。山松ゆうきちの漫画に描かれる、阿佐田哲也の随筆に綴られる、競輪狂の女性が長年月の内にオーバー・ラップしてしまい、今の記憶に至っている可能性も否定できない。
 昔は総じて払い戻しに時間がかかったけれど、酷かったのは競艇のフライング、多摩川競艇の最終で人気の二艇だか三艇がフライングを切った。ということは舟券のほとんどが百円戻しで生きている。通常はすった客からどんどん去って行く。それでも昔の混雑は並みじゃない。それがほとんどの客がそのまま払い戻しのために残るのである。あのときの多摩川がどのくらいの入場だったかはわからないけど、まぁ半端ない混雑、大仰に言えば混沌に近かった。
 毎度毎度の昔話であるが、考えてみれば別に、競輪や競艇が特別だったわけじゃない。競輪場に一日居れば顔も服もすすけたようになったが、当時の電車、映画館、野球場だって似たようなもので、お世辞にも「衛生的」な空間ではなかったと思う。デパートの食堂だって日曜の昼時には「フライング二艇の競艇場」と変わらない。家族連れの客がわんさか押し寄せ、待ちくたびれた子供がテーブル席のまわりを駆け巡っていた。相席もあたりまえだったと思う。
 映画館は煙草の煙でもうもうとしていた。
 国会では議員が煙草を吸っていたような気もする。
 ホテルの予約で喫煙禁煙を選ぶなんてこともなかった。
 道を歩けば犬の糞がそこら中に放ってあった。
 あれ、時代がのぼっているかしら。だいたい私は何の話がしたいのだろう。
 ともかく老女は言ったのだ。吉井は中野に逃げきっちゃうくらい強いのだと。

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