走る前の「ラインで決められるように」のコメントは立派だ。
走った後の「勝つには勝ったが三番手の何某さんには迷惑かけてしまった」と反省するのも健気ではある。
だけど、思う。きまらなかったのはあなた一人のせいではない。
先日の取手記念は吉田拓矢のうれしい地元優勝で幕を閉じたが、関東五人の大連係ゆえ、表彰台に吉田ひとりはさびしいと思う人はいて、いきおい走り方に注文をつける人もいる。ま、それは車券を買っている側からは仕方のないことで、しかも、それも競輪の楽しみのひとつともいえ、じっさい私も何十年文句をたれてつづけている。
競輪の競走形態はむかしとはずいぶん変わった。四十年前に、賞金の高いレースに於いて、前述の関東大連係みたいな競輪がなかったとはいわないが、かなりすくなかったはずだ。逆に、記憶に留める「大連係」ぽいレースはことごとく、きれいに決まったような気もするけど、自信はない。
ラインで決めるために必要なことは、ライン全員が機能することである。と、わかったようなことを記してみる。
いくら強い先頭がラインで決めたいと思っても、後ろも同様に強い意志を持っていなければ、なかなか首尾よく事は運ばない。と、先生のように説いてみる。
戻って取手記念の大連係だが、吉田から二着も三着も「抜けた」結果を嘆き、いきおいそのことに対し、先頭-番手-三番手の選手に責を負わそうという言説があるのだとすれば、それには異を唱えたい。先頭がどう走ろうと、番手がどこで発進しようと、三番手がどこで踏もうと、四番手と五番手の選手が、マークをはずしたのに――守澤太志に奪われてしまったのに――最大の因がある。あれだけ明瞭にマークを明け渡してしまった競輪を、前走者や前々走者のせいにはできない。また、競輪はそんなやっこい競技ではない。なあんて気色ばむほどのことでもないけどね。
競輪は、選手の、男気、胆力、失敗、日和り。選手間の、信頼、不信、好悪。その他もろもろのことを、自由に想像妄想空想するゲームであるからして、車券の精髄は自由でなくてはならない。これまた独りよがりかっこつけである。
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