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俺には逆説などない~久留米記念競輪決勝観戦記

2024/06/25 17:54 閲覧数(249)
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 昼すぎの第五競走、四日間追っかけていた原井博斗がやっとこさ・辛うじて出た。だから決勝も行けるなどと思うわけもないが、不様な闘いにはならないのでは、という薄日がさしたような気にはなった。
 優勝は半年以上稼いでいなかった山崎賢人が持って行った。
 昨日の本欄で山崎に触れ、「競技活動により半年ぶりの本業復帰だ。稼ぎたかろう。仲間にも――嘉永泰斗にも伊藤颯馬にも――ねぎらいの気持ちがあってしかるべき。三番手からの美酒は物語だ。が、人生そううまくは運ばない。逆に、七ヶ月のブランクの方に心配の種を探すことも、またギャンブルである。番手は大楽なのに三番手の離脱(はずみで攻められる)。素直に番手捲り・マークの車券をぶち、地団駄を踏むケースの過半はこれである。」と記した。
 番手(嘉永)から三番手(山崎)を切ったら、番手が消えて三番手の優勝である。はずれには慣れっこだけど、見映えの悪い負け方にガクンとなった。
 我が家の週替わりのカレンダーには「偉人のことば」なるものが掲載されていて、今週はアンリ・フレデリック・アミエルという人の、「逆説は、頭の働く人の思考癖である」だった。スイスの詩人と注釈が添えられている。
 氏がいう逆説と、俺が闇雲に張る逆目とは似て非なるもの。いや似てもいない只の非なるものである。だいたい俺は、逆説に値するような、しっかりした本論を持てない愚者なのだから。
 Mさんがよくいっていた、「競輪は一日一善」、本来の意味とは異なるかもしれないけど、ま、車券は一日一回当たればよしとする。というか二回は当たらん。そんな戒めとして使っていた。それには勝負師のTさんもうなずいていた。Tさんなら、原井博斗を取りこんだら、決勝も見ずに競輪場を立ち去ったことだろう。記者席の往年の個性派たちがなつかしい。

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