雪に見舞われた一九八四年の千葉ダービーは滝澤正光の感涙で幕を閉じた。バンクの内側にまだ除雪の山が残っていた記憶がある。指定席の通行証は手に押す蛍光スタンプだった。
翌八五年の立川は毎日通った。六日間の負けを取り戻すには二番車の伊藤豊明から打つしかなかった。結果は清嶋彰一の優勝、強烈なハイピッチで誘導を引いたのは古林昭二だった。
九〇年、湘南ダービー。無理を承知で俵信之-佐藤正人のズブズブに絞ったが坂本勉が残って千百幾らの配当に悔むこと悔むこと。帰途は女々しさ全開の東海道線だった。
九三年の立川は選手紹介の直後に雨が降った。海田和裕の番手を大竹慎吾が競り勝ち俺の◎○だったが二着失格、開催中にバンク・レコードを塗り替えていた遠澤健二が繰り上がった。結構な枚数の車券が紙屑となり俺は机をぶっ叩いた。茫然自失のまま「競輪フラッシュ」なるラジオ番組で喋ったが、機嫌の悪さがモロに出ていたらしい。
九五年の松戸ダービー開催中には地下鉄サリン事件が起きる。記者席のテレビ映像を凝視する伊集院静氏の立ち姿を忘れないでいる。
九八年の西武園は岡崎孝士が引っ張って吉岡稔真の番手捲り。二着に神山雄一郎で八百八十円は取り頃の配当だったが、ウチの新聞だけフォーカスがないと担当のNさんが不機嫌になった。格好悪いから「バッハ」(当時専門紙記者が出演していた公営競技の番組)には出ない、タケ、お前行ってくれと命じられ、仲間との打ち上げもそこそこに「テレビ埼玉」まで出掛けたのを憶えている。
二〇〇二年の立川は三連単が買える初めてのダービーで山田裕仁、内林久徳、古原勝己と入り二万余の払い戻し。五千円が簡単に百万になる破壊力に驚いた。
〇八年、駿府ダービー。山崎芳仁のカマシを渡邊晴智-合志正臣でズブズブ。ここで山崎の逃げかアと悔やんでも後の祭りだった。
一昨年の二〇一二・熊本が成田和也で去年の立川が村上義弘か。調べたらどちらも「一と九」の目が絡んでいるのだがイカンイカン、今から出目に縛られてどうすると自分を戒める。
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