再生
長谷川 稔
何時からだろう。競輪を嫌いになったのは。
何時からだろう。自転車を嫌いになったのは。
何時からだろう。自分を嫌いになったのは。
意識が朦朧とする中、灰色にくすみ掛かった病院の天井を眺めながら、ふと思った。
次の瞬間、その考えに罰が当たったように激痛が体を襲う。
「生きてたのか?」
体の痛みで生死を確認する。この痛みなら鎖骨と肋骨を折っていることだろう。
昨日のレースで、落車をした。幸い単独落車だった為、他の選手には迷惑を掛けずに済んだ。落車後の記憶は無い。三十年間の記憶も、同時に無くなっていれば良かったのにと、縁起でも無いことを思う。
「ぐう~」と、腹が鳴る。不思議なもので、精神は死んでいても体は生きている。忠実な日本人のようにホウレンソウを欠かさず実行してくれる。生きる気力が無くても腹は減る。
「村山聡の病室は何号室でしょうか?」
廊下に響き渡る大きな声が聞こえる。身に覚えがある声に、師匠だと気付く。次の瞬間、病室のドアが開く。
「聡~。この病院は可愛い女が多いなぁ。」
と、師匠の第一声が個室に響き渡る。此処はクラブでもなければ、キャバクラでもない。
「俺も此処に入院するぞ。決めた。入院するぞ。」
此処はラウンジでもなければ、風俗でもない。指名も無ければ、同伴もない。正真正銘の病院だ。可愛い女性が居るからとの理由で入院は出来ない。そんなシステムはない。
「聡~。相変わらず目が死んでるな。」
師匠の口癖だ。
「十五歳で人生が終わる。」という言葉を耳にしたことがある。その言葉が本当なら僕は既に二回死んでいることになる。
「聡~。そんなに競輪が嫌いなら、競輪辞めるか?」
師匠から初めて言われる言葉だった。
遅かれ早かれ才能のない競輪選手に見切りを付けなければ、とは思ってはいたが、いざ師匠の口から言葉として提示されると、何故か自転車を取り上げられたような子供の気持ちになっていた。
病室の窓から多摩川の河川敷が見える。そこに小学生ぐらいの男の子がマウンテンバイクを一所懸命漕いでいる姿を発見する。
思い出す。照り付ける太陽の匂いと、土手の草の匂いと、ゆったり流れる川の匂いと、生暖かい風。そこを自転車で颯爽とペダルを漕ぐ爽快感。色々な匂いを感じながら、風と一体になる感覚。懐かしい。
河川敷を眺めながら、涙が零れ落ちていた。止めどなく涙が流れ落ちていた。音を立てずに泣いていた。
「聡~。これでも食え。」
僕の大好物である神田屋の鯛焼きを師匠が手渡してくれる。弟子の心理を見事に読み取ってくれる。
「ありがとうございます。」
涙が止まらなくなった。今度は声を上げながら、わんわんと泣いていた。自転車を取り上げられた小学生のように、父親に縋る様に、わんわんと泣いていた。
「僕から自転車を取り上げないで下さい。お願いします。自転車を取り上げないで下さい。」
師匠に懇願するように泣きじゃくった。
「お前から自転車取り上げて何が残る。取り上げようとする奴が居たら、俺がそいつの自転車を取り上げてやる。」
大の大人が二人して小学生のように泣きじゃくった。
理不尽な物言いだが、この時の師匠は父親よりも父親らしく、母親の様な優しさで僕を包み込んでくれた。
「鯛焼きはやっぱり神田屋ですね。」
「そうだな。」
病室で、五十四歳の競輪選手と三十歳の競輪選手が泣きながら鯛焼きを頬張っている。
あの時の甘塩っぱい鯛焼きの味は、絶対に忘れることは出来ないだろう。
この日を境に、師匠と弟子との絆は尚一層深まった。二人で戦って行こうと。
師匠と弟子とは、親子よりもややこしく親戚よりも複雑な関係を指す。
競輪選手の師匠と弟子とは、落語家の師匠と弟子の関係と類似している。
落語を忠実に教え込む師匠も居れば、落語を全く教えず、背中を見せて覚えさせる師匠も居る。
僕の師匠は後者になる。
競輪のノウハウよりも競輪選手としての姿勢を体現してくれる。
レースについて褒められたことも無ければ、怒られたことも無い。
だから十年間、競輪を続けていられた理由だろう。
師匠との出会いは、僕の父親が師匠と同級生で、弟子を取っていなかった師匠にどうしてもと頼み込んで弟子にして貰ったのがきっかけになっている。
師匠は有名な選手ではなかったが、事業に失敗した父親の借金を肩代わりしてしまうほど人がよく、情に熱い性格だった為、父親が白羽の矢を立てた。借金の替わりに息子を肩に入れたのだ。
高校卒業後、陸上競技を諦め、一年間競輪浪人を経て、競輪学校に入学をし、晴れて競輪選手になった。
僕の初勝利を観ずに、親父は亡くなった。亡くなる最後の言葉は忘れようとしても忘れられない。
「俺は人生で一回も一着を獲れなかった。お前は人生の一着を獲れよ。」
人生の一着も獲れなければ、ここ半年間、競輪でも一着を獲れていない。師匠への借金も返し終わっていない。親も親なら子も子だ。
師匠には子供が居ない。居ないから、僕を息子の様に可愛がってくれる。
二回人生が終わっているなら、三回目は師匠の為に競輪をしたい。自分の為だけの競輪はもう終わりにしよう。長い反抗期はもう終わりにしよう。僕にとっての競輪は苦しむものではなく、楽しむものだと師匠の背中から学んだ。自転車で風を切る爽快感をもう一度大事にしよう。
思っていたより怪我の完治に時間が掛かった。リハビリが終わったのが十一月で、バンク練習、街道練習が出来るようになったのは十二月。新人の頃の様にみっちりと練習をこなした。
この冬、初めての雪が降った日に復帰戦の斡旋が舞い込んで来た。十二月二十八日から三十日までのFⅡ開催。ホームバンクである京王閣競輪場では競輪グランプリが開催されている。僕が走るレースは、すなわち裏開催だ。日本一の競輪選手を決めるお祭りレースの陰に隠れて、誰にも注目されないレースで僕は只単に一着を目指す。復帰戦としては申し分ない環境。競輪選手とは、どんな状況でも一着を目指す。師匠から学んだことだ。
電話が鳴る。
「聡~。復帰戦決まったみたいだな。」
「はい。グランプリの裏開催です。」
「そうか。良かった。良かった。グランプリでは兄弟ワンツーとか、師弟ワンツーとかって盛り上がってるから、俺らも決勝でワンツー決めてやろうや。お手柔らかに頼むぞ。」
一瞬、師匠が何を言っているのか分からなかったが、直ぐに気付く。十年やって来て初めて同じ斡旋で、師匠と一緒にレースに出れる。番組にもよるが、決勝に乗れば確実に連携が出来る。
人間は目標があると成長出来る。
「五年後、十年後の目標も立てると良い。」という方がいたが、そんな先の目標は必要無い。十二月三十日の決勝に乗って、師匠とワンツーを決める目標があれば、その後の目標はその後に考えれば良い。僕には時間が無い。
十二月三十日、師匠と僕は決勝の発走台で号砲を待っている。日本一の一着を争う訳ではなく、人生の一着を獲る為にレースをする。
このレースで、このチャンスを逃すようなら、僕は潔く自転車を取り上げて貰おう。誰に取り上げられても文句は言えない。自分で自分の一番大事なモノを手放す様なものだから。
師匠は一番車で僕は四番車。初めての師弟ライン。師匠がいつも以上に気合いが入っているの感じた。
号砲が鳴る。
三度目の人生がスタートする。三度目の正直。
「親父。一着獲るからな。」
レース中の記憶が無い。でも今は、記憶が無くなれば良い何て思わない。無我夢中でペダルを踏み付けていた。風を感じる余裕など無かった。師匠の為に。
ポンポンと肩を叩かれて我に返る。
「馬鹿野郎。聡、師匠に華を持たせろよ。付いて行くので精一杯だったぞ。」
と怒鳴りながら、僕の左手を高々に宙に運んでいた。
疎らなお客さんから拍手と声援が飛んでいた。師匠は全てのお客様に会釈を返していた。僕は辛うじて自転車にしがみ付くのが精一杯だった。
師弟ワンツーでもう一つのグランプリは幕を閉じた。
半年振りの一着。師匠とのワンツー。
久方ぶりの優勝インタビュー。
「怪我から復帰出来たのも、今日優勝出来たのも、自転車を取り上げられなかったのも、師匠のお陰です。これからも一着を目指して精進致します。」
自然と涙が溢れた。嬉し涙だった。
また、自転車に乗れる。
また、師匠と競輪が出来る。
まだ、競輪選手で居れる。
敢闘門には、泣きながら息子の帰りを待っている父親の姿があった。
「親父。一着獲ったよ。」
師匠は二度大きく頷いた。
二人の人生はこれからも続く。
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2015/03/14 22:00 閲覧数(2670)コメント(6)
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競輪王子
『道』ですね。
心にきました。