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競輪史観

2017/06/01 11:50 閲覧数(1136)
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 今ある競輪だけが競輪ではない。
 勢いのある傑物が声高に何かを叫んでも、どんな最新の情報技術が競輪というギャンブルに利便をもたらそうと、半世紀以上にもわたる競輪の歴史をないがしろにすることは絶対に出来ない。
 数多の名選手と幾多の名勝負の堆積はもちろんだが、その百倍千倍の無名選手による「端席」の勝負に依っても今の競輪はある。
 最短一年で馘首され選手はただの淘汰されたダストなのだろうか。
 そんなことはない。どこかの競輪場でその無名戦士に喝采を、野次を送ったファンとともに、在籍一年の競輪選手も今の競輪の一部分を成しているのだ。
 此方が冷や冷やするような大銭を賭していた某はもうとっくに、競輪を辞めた。俺はよく車券を買う人間こそが必要な競輪ファンだと力説するが、「買えなくなってしまった」ファンのことを一顧だにしないのは愚者の物言いに違いない。
 中澤俊治の名をどのくらいの競輪ファンが知りえるだろう。が、俺の「競輪」の大部分は彼の走りを偶然見たことで出来ていると言っても大仰ではない。立川競輪場の第二センターの金網を挟んで、走路の奴、観客席の俺との「交歓」を随分前に記したことがあるが、あの日がなければきっと、俺はここまで競輪を好きではいられなかったろう。ずっと好きでいるということは存外むずかしいものだ。
 富と名声を得た歴代のスター選手に、短命の現役生活で去っていた選手。不運の怪我に泣いた選手に、不慮の事故で逝ってしまった選手。
 黙ってずっと車券を買い続けているファンに、派手な買いで身代を潰した豪傑。馬鹿々々しいと競輪から他種目に鞍替えした人に、競輪どころではなくなった人生。そのどれもが、大小の差など計らず、分け隔てなく、今ある競輪の、根の「不滅の栄養分」となっている。そんなことを徒然に思う。

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