ブログ

オートレースを初めて見た頃を回想してみる

2014/04/03 13:13 閲覧数(8542)
このブログを違反通報します
違反通報のフォーム画面へ移動します。
こんにちは。
年度替わりでオートレースがお休みの間にちょっと書き綴ってみる、自分がオートレースにハマった当時を回想するコラムです。

自分がオートレースを初めてこの目で見たのは、今から16年前の1998年6月。
その当時、各地区における勢力図は、以下のようであったと記憶しています。(選手名すべて敬称略)

【船橋】当時王国だったのが船橋でした。片平巧・島田信廣・岩田行雄・阿久津正夫が「船橋四天王」を形成し、特に阿久津のスタートは日本一を誇り、20m前をも叩く速攻力を持っていました。これに続き、福田裕二・宮城秀樹といった、ちょっと顔の濃い感じの面々が脇を固めていました。そして、「ミスターオート」飯塚将光と、そのライバルであった板橋忍もエース級として活躍。更にここから23期の新鋭・池田政和が台頭してきます。

【川口】オートのメッカ川口。確か当時は、日曜であれば2万人近く入っていたと思います。森且行は既にデビューしていましたが、まだ2級車でした。その師匠である「オートの神様」こと広瀬登喜夫が現役で、エースの一角を担っていました。当時の川口No.1は牛澤和彦。これに阿部光雄・篠崎実といったベテラン勢が続いていました。
また、雨巧者が多かったのも川口の特徴で、特に絶大な信頼を誇っていたのが釜本憲司と酒井雅彦でした。酒井の雨実績、人気の高さ(配当の安さ)については、「酒井~、安い~、仕事キッチリ」という、当時流行していた某引越会社のキャッチコピーに引っ掛けた賛辞が送られていました。

【伊勢崎】田代祐一が守ってきたエースの座を一気に奪ったのが、後に「絶対王者」の称号を得る事になる22期の高橋貢。この前年に初のSGを奪取すると、一気に伊勢崎の中心的存在となり、初めてA1(地区No.1)の座を奪取してから、これまで一度も他者に譲る事無く、連続記録を更新しています。

【浜松】鈴木辰己・鈴木章夫のダブルエース時代。これに次ぐ存在が加茂正孝・奥川裕司。そして、この中に追いついてきたのが、前期B級から一気にA級上位にランクアップしていた伊藤信夫でした。セア成熟期のスピードレース時代の旗手として台頭してきた伊藤信夫は、この後1999年12月の地元SG・オートレースグランプリ優勝戦にて、今後破られる事の無いであろう10周戦日本レコードタイム「3.284」を叩き出し、その名を歴史に刻みました。
また、雨走路では斎藤正悟と長谷晴久が二枚看板でした。この2人が雨走路の同じレースでワンツーを決めた際、2連複が100円元返しになった事もあります。

【山陽】当時は晴雨共に絶大な信頼を誇った(特に雨では日本一の巧者であった)小林啓二を筆頭に、岡部聡・岡松忠・穴見和正といった面々がエース級を担っていました。
また、川口と同様、この小林啓二を筆頭に雨巧者が多いのが山陽の特徴でもありました。

【飯塚】今は亡き飯塚が誇るエース・中村政信を筆頭に、永冨高志・枡崎正・二田水潤太郎といった面々が活躍していました。田中守もエース級でしたが当時は休場していました。そして、これに続く新時代のエースとして成長著しかったのが、23期の浦田信輔です。

そして、こういったエース級の活躍だけでなく、下位の選手にも個性的な選手が多かったと思います。当時は、各地区毎にA~Cまでのランクが付与されていた時代(各地区のNo.1が「A1」と言われていた時代)ですが、C級選手になると、主力級とのハンデ差が100近く(それ以上も)になる事が多く、すぐ上の選手とでも30mや40mのハンデ差が付けられていたような時代でした。その選手が逃げ粘れるか否かが、午前中のレース予想の醍醐味でした。

【船橋】もう少し後になってくると、スタート速攻からどこまで粘れるかが予想のポイントだった唐鎌大輔や、左足の出し方に特徴がった田中哲などが注目されるところでしたが、当時は高橋茂あたりが印象的でありました。

【川口】当時定期的に遠征していた事もあり、印象的なC級選手が多かったです。佐藤武之・谷口哲也・谷山次郎・石橋明・石間戸英一などなど。そして、当時練習番号1番の期前選手・小須田栄一は、縦書きで中央に大きく「アズマスター」、その左側にやや小さく「小須田栄一」と記すという、まるで書道のような独特のサインで一部コアファンを魅了していました。

【伊勢崎】数年前であれば佐伯忠彦・猪俣忠あたりの名前が出てくるでしょうが、それでも当時はまだ中の下くらいだったと思います。当時C級で思い出す名前としては、本田茂二・久米優といったところです。でも、伊勢崎にはなかなか行けなかった事もあり、そのレースぶりとかは余り印象が無かったです。

【浜松】自分の地元だけあって、多くのC級選手が印象に残っています。ちょうど初めてオートを見た1998年6月に引退したのが、「ハシレアキオ」「クレージアキオ」といったユニークな車名を付けていた高橋明男。前半はハンデを生かし強烈に逃げるも、後半のタレ方は半端無かったと聞いています。残念ながらこの目でレースを見る事は叶いませんでした。また、長老級では期前の宮本政尚・青島守隆(CXの青嶋達也アナの実父)・坂田啓一に始まり、神戸俊雄・加藤寛一・鈴木勲といったところが印象に残っています。

【山陽】全体的に層が厚く、C級選手でも他場ほどのハンデ差が無かったのが山陽の特徴でした。他場に行けばかなり勝負になって車券的妙味のあった選手もいました。一番印象的だったのは、0ハンからの逃げ脚が良かった山川道広です。

【飯塚】そして、個性派C級選手の宝庫だったのが飯塚です。浦中久・杉村福啓・加川登・加川光俊・辻生亘・梅田友幸・福間淳一・大森邦彦・・・と、挙げていったらキリが無い程です。


なんか、書き綴ってみたら懐かしさのあまり涙が・・・(やや脚色)。まだ3連勝式が売られていなかった時代。選手の数も今より多く、その分個性的な選手が揃っていたと言えるでしょう。

コメント(0)

※コメント投稿後は編集・削除が行えません。投稿前に内容をよくご確認ください。
※コメントは承認制の場合があります。管理側で内容を確認するため、反映に時間がかかる場合があります。

Gambooでは、人が嫌がるような発言、著作者の許諾のない文章の投稿、公序良俗に反する投稿等を禁止させていただいております。禁止行為が確認された場合、予告なく削除、コミュニティ機能の利用制限、退会等の処理をさせていただくことがありますのであらかじめご了承ください。
コミュニティのご利用ガイドライン
TOPへ