Tとは多摩川競艇場の警備員のバイトで知りあった。最初は呼び捨てだったが年齢が俺より二つか三つ上とわかってからはTちゃんになった。
西国分寺の彼のアパートの本棚には難しそうな政治や経済の本が並んでおり、俺がこれ全部読破しているわけ? と冗談口で尋ねるとどう返ってきたのだったっけ――。泊めてもらった俺がまだ寝ているのを起こさないように、朝早く奴は赤旗の日曜版を配りに部屋を出たのだが、あの日から四十数年が経っているのか――。
Tが桜台に引っ越したのは東中野の能楽堂の事務所で働きはじめたからで、三十八九年前だろう。俺は新宿の就職先を一週間で辞め、そのアパートにちょくちょく短期の居候として厄介になった。桜台の住所で某劇団研究生募集の願書を送ったこともある。数日後、おい、変な通知が届いているぜと奴は興味なさそうに返信を渡した。居候がもうひとり、関取と呼ばれる大男も出入りしていて、よく一緒になってTちゃんの帰りを待った。空腹に耐えられず二人で冷蔵庫の卵を焼いて喰ったことを忘れないでいる。アパートの隣部屋にはTのフィアンセが住んでいたのだが、俺たちは邪魔もの以外のなにものでもなかったろう。
金がない俺をTは能楽堂のバイトに誘ってくれ、掃除をしたり弁当を用意したり、用事をいいつかり新宿のデパートにケーキを買いにゆくこともあった。そうだ一回人手が足りなくてビデオ撮影を任されたんだ。定点だったか固定だったか、ともかくカメラを動かさないで座ってりゃいいからと奴は諭した。売り物ではない只の資料用だろうが、俺からすれば最初で最後の映像作品である。
俺が西八王子の小規模な予備校で働きはじめたのと前後して、Tは能舞台の制作にたずさわるようになった。俺も暇なとき手伝いに呼ばれたが、大工仕事がまるで駄目な俺は只の足手まといであった。日比谷の野外音楽堂に仮設の能舞台を設置するためフローリング作業をしたことがあるが、そのイベントにアグネス・チャンが参加していたのを憶えている。
Tが独立して舞台製作の会社を興したのは何年なのだろう。予備校を辞めた俺が運送のバイトと競輪の日々だった昭和の終りか、すでに「敵前逃亡」して今の職業に就いていた平成になってからか。年に一二度欧州に出張するようになった奴の土産話が楽しく羨ましかった。
Tが死んでしまった――。
去年の十二月二十一日の昼間、新宿で一緒に食事をした。奴の病気が簡単じゃないことはわかっていたが、ハイボールをお代わりし、治療は一進一退と笑いながら茶化すTは俺を安心させるために気張っていたのかもしれない。食後に寄った喫茶店はかなり喧しく、声を出しづらそうにしていたTに悪いことをした。パソコンを開きながらデカい声で話す隣の若者たちに俺は腹が立った。小田急線の改札まで送ったが、去りがたい俺は歩くTの後ろ姿を目で追った。ふっと奴が振り返る画が脳内に残っているのだが、その記憶が怪しくも想えてきて不安な気分が起こる。
今日の昼に訃報が届いてから何も手につかず、ぼうっとテレビを見ていた。偶然NHKのBSでS・キューブリックの『バリー・リンドン』が放映されており、三時間の長編をぼんやり鑑賞したのだが、“貧者も富者も善人も悪人も今は皆等しくあの世だ”のエピローグが偶然とは想えず息苦しくなった。
外気に触れようと近所の喫茶店まで歩いた。“今月の珈琲”を二杯飲んだ。いつもはあまり気にしない店内に残る電話機がはずされた電話ボックス(現在は数点の縫いぐるみが飾られている)に、まだ椅子とNTTのぶ厚い電話帳が置かれているのを見つけてしまった俺は、ついきのうのことのようだった俺とTの時代がいきなり終ってしまった気がして泣きたくなった。Tと出会わなければ、Tを友として得なければ、おそらく俺は別の人間になっていただろう。現在の仕事にも就いていないだろう、きっと――。
――それでも競輪を見ている。
四日市の第十競走、松岡篤哉が八谷誠賢に捲られしまい、山口富生の通算四百勝はお預けとなった――。
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